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日本史ならず院政という言葉は今でもなじみ深い言葉です。
いわゆる派閥を引退した経営者が違うポストに就いて実際の権力を握るシステムです。
日本史では代表的なのは院政期と呼ばれる白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の院政が挙げられます。
院政はなぜ起きたのでしょうか?
それには理由があります。
奈良時代と平安時代は皇族や天皇グループと藤原氏の権力争いとも言い換えられます。
どっちが主導権を握るかで争っていた内情があります。
藤原氏はもと中臣氏だった時に蘇我氏を倒しました。
天智天皇に協力する形で。
その時に藤原氏は天皇になるデメリットを察知しました。
実際にはナンバー2として実権を握ったほうが気楽で責任が軽い事実に気が付いたのです。
何かあれば天皇に責任をかぶせればいいのですから。
過言ならば天皇も連帯責任を負うシステムです。
摂関政治ならば天皇と摂政や関白で責任を折半するような状態ともいえます。
このシステムが天皇のみだったら天皇の責任は非常に重たいものとなります。
中国の皇帝に匹敵する権限になるかと思います。
なかなか歯止めが利かないので政権がひっくり返ったら一巻の終わりです。
だから藤原氏が日本に存在してよかったともいえます。
かつ安全装置なのか当時の法律の律令でも天皇は法律に縛られていました。
独裁的な君主ではなかったのです。
しかし院政が始まるとガラッと変わります。
上皇もしくは法皇になる法の縛りは何もありません。
律令の盲点でした。
そこを天皇家は突きました。
なのでやりたい放題の天皇のOBが時の天皇や後輩の上皇にまで口やかましくいう歴史が生まれたのです。
それが院政にあたります。
藤原氏も縛る法律がないので分が悪くなります。
当然摂政も関白も太刀打ちできない状態になります。
上皇は法律がないので責任もないのですから無敵状態です。
白河院政を生きた八幡太郎こと源義家も白河上皇には頭が上がりませんでした。
武士の力をもってすれば可能だと思われますが白河上皇が院宣を発すればほぼ源義家は終わりです。
院宣は日本最強の命令です。
この院宣をしのぐ命令は日本史上、マッカーサーが出したポツダム勅令もしくはポツダム政令しかありません。
もちろん摂関家の皇子が誕生しなかったのもありますがもしも摂関家の皇子が誕生しなくても摂関政治は崩れたでしょう。
天皇家を不遇に追い込んで天皇家が学習しないわけがありません。
もっとも摂関家と天皇家の結婚を何度も繰り返す近親婚に近い結婚です。
語弊がありますが遺伝子が偏るので元気な子は生まれにくくなる傾向になると思う次第です。
だから院政という言葉は今存在しています。
日本史に残る便利なシステムなので世界の優秀な政治家や経営者は取り入れています。
取り入れられた現政権者はたまったものではないでしょうけれども。
院政が起きたのはこのようなわけです。
天皇家と藤原氏との抗争で生まれた産物としておきます。



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