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江戸時代は士農工商なんて昔は教えていました。
現在の教育事情ではそのような教え方はしていないと伺っています。
そのようなカテゴリーとしては呼んでいなかったのでしょう。
例えばお箸のマナーをガチガチに守る人は少ないと伺います。
もちろんパーフェクトに近いもしくはパーフェクトにできるかたはマナーの達人です。
私は尊敬します。ただ実際にやってみると食べづらいことこの上なしです。
なのでこじつけになりますが士農工商の暗黙上の分類はあったのでしょうが実際にはそう呼んでいなかったとするのが無難でしょう。
だったらなぜそう呼んでいないのを説明しなくてはなりません。
どうしてなの? と学生の方にレクチャーできなければいけないと伺います。
私なりの答えですが身分区別でそう呼んでいなかったに留めておきます。
後世の人がカテゴリーに分けたとしておきます。私は江戸時代にはそこまで詳しくないので。
しかし私が知っている限りでは武士は農民を税の対象としてみていたのは確かです。
商人は武士が嫌っていた存在ともいえます。当時の御用学問の朱子学の影響があるからです。
武士は孔子の影響があるので商売を卑しみました。孔子は間接的に商売を卑しんでいます。
江戸時代の草創期は農本主義でした。時代が下って商業が発達するとひっくり返ります。
以上の引用から暗黙上の分類はあったと思われます。
もう少し研究してみます。江戸時代を。
今回は意外と難問でした。答えになったのかな?
もっと私は研究に励まねばなりませんね。

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江戸時代はいわゆる太夫職と呼ばれる職業が存在しました。
平たく言えば花魁です。太夫が存在しなくなったので花魁が廓でそう呼ばれました。
花魁は意外と江戸時代で人気があります。男性にも女性にも。
男性にとっては高値の華でしょう。
女性は花魁に共感ている人が多いと勝手に解釈しています。
ただし花魁は今でいう大女優にあたります。
なぜかというと大名が良く通ってくるので俳句や和歌はもちろん将棋や囲碁も指せます。
大名に失礼と廓の雰囲気を壊さないためなのか茶道や源氏物語などの教養も必須でした。
なので大女優ともいえます。
だから花魁は気位が高く気に入らない大名がいればお断りしていたといわれています。
いわゆるフラれた、というやつです。
花魁にも拒否権があったのです。
しかしフラれた男はたまったものではないでしょう。
惚れている花魁に振られた挙句にお金をただでとられてしまうのですから。
だから花魁は銚子や流山の若旦那を好んだともいわれています。
お金をたくさん持っているからです。
そのたぐいの話は落語の演目にたくさんあります。
いわゆる若旦那ものです。
花魁の手練手管にはまって実家のお父さんに勘当されます。
落語では元に戻るのですが実際の若旦那は銚子に無理やり奉公させられたと川柳にあります。
銚子で漁師に奉公して地引網を引く仕事をさせられました。
流石の若旦那も了見が直り以後はまじめに家業をしたといわれています。
花魁が悪いのか若旦那がわるいのか判断が分かれますが災難だったのは若旦那ですね。
江戸時代の言葉に百姓と護摩の油は搾れば搾れるものなり、とあります。
税の対象だった農民にそういったのですが花魁は若旦那に心の中でこう呟いていたでしょう。
若旦那ほど搾れるものはないでありんす、と。
これは落語の演目にならないでしょうかね。
ちょっと無理なのかな。
江戸時代には一揆があったのは歴史の教科書に載っています。
歴史の得意な人には詰まらない話かと伺います。
では戦国時代の一揆とどこが違うのでしょうか。
江戸時代は百姓一揆で戦国時代は国人一揆などと表現されています。
歴史の詳しい人は百姓一揆は農民が竹槍を武器に年貢の減免などを謳って代官所を襲った、と仰るかもしれませんっしゃるかもしれません。
戦国時代は国人たる豪族が武器を取って謀反行為に近い行動を起こしてあわよくば国を乗っ取る事態にも及んだ、とも仰せでしょう。
もちろんその通りです。百姓一揆は竹槍で済みます。
しかし戦国時代の武器は太刀や本物の槍や鉄砲や弓です。
なので謀反を起こして国を乗っ取られる事態にも及んだのです。
ちょっと歴史の用語を厳密には言い換えてはいませんが加賀の一向一揆がその例でしょう。
では一向一揆はどんな一揆かというと一向宗、今でいう浄土真宗の門徒が起こした一揆です。
一向一揆は織田信長や徳川家康も悲惨な目に遭いました。
信長は弟の信興を伊勢長嶋の一向一揆勢に殺害されています。
家康は家臣が一向一揆に寝返ったのでこう言葉を残しています。
もし俺が死んでも一向一揆だけは殲滅してくれ、と。
では一揆は戦国時代から江戸時代まで何故様変わりしたのでしょうか?
それは江戸幕府を開いた家康の先輩たる信長と豊臣秀吉が大きくかかわっています。
信長は宗教に関して家康以上に痛い目に遭いました。
なので兵農分離を試みています。
豊臣秀吉ほど本格的ではありませんが秀吉の雛形ともいえる兵農分離をしています。
農民は戦に参加しない、とのお触れを出した様子です。
秀吉のやった兵農分離は刀狩りですね。農民から武器を取り上げました。
太閤検地も付属すると思います。
家康は国の収益は農民と鉱山だと思っていた節があります。
主の収入源なので、百姓は生かさず殺さず、との哲学を持っていました。
なので土地に縛り付けておくのが良いと考えました。
武器を取り上げらえて戦に参加しないので百姓一揆で襲うのはほとんどが領内の代官所です。
もちろん佐倉惣五郎をはじめとした江戸にまで打って出た農民と一揆勢もいます。
ただ江戸幕府を倒すまでには至りませんでした。そこまでの気持ちはなかったと伺います。
もっとも江戸幕府の石高は400万石ともいわれています。
天領すなわち幕府領で起こしても限界があったのでしょう。
百姓一揆を口実に取り潰された藩は江戸時代にいくつもあります。
とすると江戸時代は平和な時代だったともいえます。
信長と秀吉と家康をがっちりカギに架けたおかげで。
今日本人の気質がおとなしいともいえるのは信長や秀吉、家康のせいなのかもしれません。
ここはどう解釈しますか? 殺伐とした世界よりも安全な世界ですね!
江戸時代に大学者ともいえる政治家がいました。
六代将軍の家宣と七代将軍の家継に仕えた新井白石です。
ここで政治は結果がすべてということをお話しします。
政治の非常な理論ですが自由を満喫できて悪い奴から護ってくれてお腹一杯食べられれば大抵の政治家に靡く結果になります。
ヒトラーはポーランドを侵略する前はほぼ強いドイツを復活させた有能な政治家との評価でした。
少なくともワイマール期のドイツではそういった評価だったと伺っています。
平成の時代にはフセイン大統領やカザフィ大佐が挙げられます。
この二人は独裁者でしたが国民は従っています。
いわゆる英雄がもてはやされた結果でしょう。
お腹一杯食べられて自由は満喫まではいかないと伺っていますが悪い奴らから護って貰えたのですから。
人間の現金さを悲しく思います。そうでなけれは生き残れなかったのでしょう。
自然界の淘汰と人間界の無常を乗り越えるためのDNA的には。
話は新井白石に戻ります。新井白石は貨幣の改鋳を行っています。
江戸時代は今でいう新円や新札の発行をしています。
というよりほとんどが改悪です。ごく簡単に言えば貨幣の改鋳と称して質を下げます。
質を下げた結果浮いた金銀で幕府の金蔵にため込みます。
政府は信用が一番です。お金は政府が信用を持たせて鋳造したり刷ったりしています。
信用を持たせなければ日本国は偽札で満ちてしまいます。
そうすると国家が破綻するので偽札の罪は重いのです。懲役で二十年と伺っています。
江戸幕府はその政府の信用の逆を突いたのでしょう。
詳しくは荻原重秀が行った元禄の改鋳が発端で有名です。
その話はまたにします。今回は新井白石なので。
その荻原重秀を否定する形で新井白石は改鋳に臨みました。
新井白石は当時の朱子学者でした。
朱子学は儒学の一派ですがあまりにも難解な思想を含むので解説はまたにしたいと考えています。
ともかく新井白石は重秀のやることが気に食いませんでした。
改鋳をしてもとの金銀の割合の小判に戻しました。
結果としまして信用は元に戻りましたがデフレに陥りました。
そうすると経済の優秀な重秀の評価が高くなりました。
新井白石は経済音痴の烙印を押されています。
少なくとも現在では新井白石は経済を知らない、との評価が一般的です。
皮肉なものです。どうでしょうか。政治は結果がすべてという説は。
ご批判もあるかと伺いますが。
だからといってなんでもかんでも結果ばかりに行き過ぎてはいけないとも思います。
そうしたら自由もお腹一杯も悪い奴から守ってくれるとは疑問符が付き始めます。
政府自体が暴走を始めるでしょう。結果を急ぎ過ぎれば。
新井白石は一生懸命にみんなのためを考えてやったのでしたが以外に盲点が存在しました。
政治はリアリストでなくればいけませんね。しかし新井白石は立派だったと思います。
政治家で世のための見本になる行動をとったのですから。
欲を言うのならば経済も活性化してほしかったです。
ライバルだった荻原重秀はどう評価したでしょうか?
注目したいところです!
江戸時代は朱子学が官学でした。
いわゆるご用学問です。
江戸幕府存続のための学問です。
なので批判すると酷いめに遭いました。
忠臣蔵の思想的役割を担った山鹿素行は朱子学を批判して赤穂に流されています。
山鹿素行は赤穂で忠臣蔵を目撃することなく亡くなっています。
教えを受けたとされる大石内蔵助らが吉良上野介邸に討ち入って幕府に講義の形で反抗しました。いわゆる赤穂浪士の討ち入り事件です。将軍だった綱吉の顔は丸つぶれです。
将軍の面体を踏みにじったので赤穂四十七士は切腹を申しつけられたのでしょうか。
討ち入ったので助命が最終的には通らなかった一因なのでしょう。
しかし綱吉はホッとしたのではないかと伺います。
江戸城に討ち入られては困ったでしょうね。
困る処ではありません。
命が取られたら泣くに泣けません。
助命をしてまた綱吉に不満を持って江戸城なり吉良上野介の息子の養子先の上杉邸に討ち入ったらそれこそ幕府は潰れたでしょう。
綱吉の判断は賢明だったと思います。
江戸城に討ち入ったら歴史はどんな結果を招いたのでしょうか。
綱吉が死んでも浅野本家と上杉家はお取り潰しでしょうね。
とすれば浅野本家を護るために内蔵助は吉良上野介邸に討ち入ったと言えなくはないだろうと考える次第です。
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