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江戸時代は変化をあまり好みませんでした。一つ上げられるのは応仁の乱がもう一度起ったら困るからです。徳川家康は本気で考えていました。
 再び日本が戦乱に巻き込まれるのは死んでも嫌でした。そのために安全装置をこれでもか、と十重二十重にかけます。
 との理由から社会の発展は好まれない状態にありました。時代の針は止まった方がよいと考えるのが江戸幕府でした。
 それだけ戦国時代がトラウマになっていたともいえます。家康の生い立ちは幼い頃に両親と生き別れています。忍従の日々と時代小説などで表現されています。
 それから織田と今川での人質を経て今川から独立します。と思ったら正面から戦って武田信玄や武田勝頼には勝ったとも言えない状態です。
 味方だと思っていた織田信長から将来の後継者と目されている信康や正室の築山殿を切腹させれてやっとの思いで武田氏を滅ぼしました。
 ところが信長が死んで上杉氏や北条氏と戦って真田昌幸にはコテンパンにやられて豊臣秀吉には勝ったものの政治で負けています。おまけに関東に移封となりました。
 関ヶ原で勝って大坂の陣で豊臣氏をペテンに懸けてやっと平和な時代を迎えました。ずらずらと書きましたがこれだけ家康はひどい目に遭っています。
 かつ用心深い性格です。歴史に詳しい家康はきっと応仁の乱が諸悪の根源だと思ったのでしょう。かつ自分が苦労の連続で不幸な人生を歩んだとも思ったのでしょう。
 歴史を知っているので時代の時計の針を止めるのが一番だとも考えたのかもしれません。ある意味おかしな行動ですが家康の時代にはそのような発想しか浮かばなかったと思われます。
 家康がもっと若く天下を手中にしていれば違ったかもしれません。幕末になって家康の安全装置をやっとの思いではずしたのが明治政府です。
 しかし今でも痕跡が残っています。家康は織田信長や豊臣秀吉よりもスケールが小さい政治家と評価されているようですが私は信長や秀吉と違った天才だと思います。
 信長や秀吉が安全装置をかけても家康には及ばないでしょう。信長も秀吉も敵がいなくなったら有頂天になったと解釈されています。
 家康は自分の中に敵がいると信じたので平和な江戸時代を築くことができました。家康が有頂天にならなくてよかったですね。忍従の日々は無駄にならなかったのですね。
 でもため息がでます。
 時計の針を止めたことではなく家康の一生を追って行くとさぞしんどかったと恐れ入ります。
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