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江戸時代には一揆があったのは歴史の教科書に載っています。
歴史の得意な人には詰まらない話かと伺います。
では戦国時代の一揆とどこが違うのでしょうか。
江戸時代は百姓一揆で戦国時代は国人一揆などと表現されています。
歴史の詳しい人は百姓一揆は農民が竹槍を武器に年貢の減免などを謳って代官所を襲った、と仰るかもしれませんっしゃるかもしれません。
戦国時代は国人たる豪族が武器を取って謀反行為に近い行動を起こしてあわよくば国を乗っ取る事態にも及んだ、とも仰せでしょう。
もちろんその通りです。百姓一揆は竹槍で済みます。
しかし戦国時代の武器は太刀や本物の槍や鉄砲や弓です。
なので謀反を起こして国を乗っ取られる事態にも及んだのです。
ちょっと歴史の用語を厳密には言い換えてはいませんが加賀の一向一揆がその例でしょう。
では一向一揆はどんな一揆かというと一向宗、今でいう浄土真宗の門徒が起こした一揆です。
一向一揆は織田信長や徳川家康も悲惨な目に遭いました。
信長は弟の信興を伊勢長嶋の一向一揆勢に殺害されています。
家康は家臣が一向一揆に寝返ったのでこう言葉を残しています。
もし俺が死んでも一向一揆だけは殲滅してくれ、と。
では一揆は戦国時代から江戸時代まで何故様変わりしたのでしょうか?
それは江戸幕府を開いた家康の先輩たる信長と豊臣秀吉が大きくかかわっています。
信長は宗教に関して家康以上に痛い目に遭いました。
なので兵農分離を試みています。
豊臣秀吉ほど本格的ではありませんが秀吉の雛形ともいえる兵農分離をしています。
農民は戦に参加しない、とのお触れを出した様子です。
秀吉のやった兵農分離は刀狩りですね。農民から武器を取り上げました。
太閤検地も付属すると思います。
家康は国の収益は農民と鉱山だと思っていた節があります。
主の収入源なので、百姓は生かさず殺さず、との哲学を持っていました。
なので土地に縛り付けておくのが良いと考えました。
武器を取り上げらえて戦に参加しないので百姓一揆で襲うのはほとんどが領内の代官所です。
もちろん佐倉惣五郎をはじめとした江戸にまで打って出た農民と一揆勢もいます。
ただ江戸幕府を倒すまでには至りませんでした。そこまでの気持ちはなかったと伺います。
もっとも江戸幕府の石高は400万石ともいわれています。
天領すなわち幕府領で起こしても限界があったのでしょう。
百姓一揆を口実に取り潰された藩は江戸時代にいくつもあります。
とすると江戸時代は平和な時代だったともいえます。
信長と秀吉と家康をがっちりカギに架けたおかげで。
今日本人の気質がおとなしいともいえるのは信長や秀吉、家康のせいなのかもしれません。
ここはどう解釈しますか? 殺伐とした世界よりも安全な世界ですね!
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